音楽療法のHow To

近代音楽療法の歴史について解説│歴史から音楽療法を理解する

音楽療法の歴史について、歴史の中に現れるいくつかの音楽療法の重要な概念を、時代を追いながら記述してみたいと思います。

その理由は、現在私達が用いている様々な音楽療法の技法が、実は歴史の中で1つ1つ積み上げられてきた過去からの遺産であることを知ることが、音楽療法理解にとても有意義だからです。

今回は、近代音楽療法の歴史について解説します。

近代音楽療法の歴史について解説│歴史から音楽療法を理解する

私達が現在行っている音楽療法を、仮に近代音楽療法と呼ぶことにしますと、その近代音楽療法は、20世紀初頭のアメリカで発祥しました。


それは初めはごく個人的な活動で、いわば1つの小さな点に過ぎなかったのですが、次第に周りを巻き込み、勢いを増し、1つの流れとなり、しまいにはとうとうたる大河のように社会を呑み込み、アメリカ全体に広がる組織的、社会的運動になっていきました。


音楽療法の芽は、音楽に興味を持つ人が居る所ならどこでも、いつの時代にもあるのだろうと思います。音楽を人間の心を慰めるために役立てたいと思うこと、それはもう立派な音楽療法です。それは世界至る所にあります。


しかしそれが単発的に起こるあいだは、周囲に影響を与えることは少なく、単に趣味的な活動として、運動にまで高まることはありません。

近代音楽療法の大きなうねり


ところが1900年代初頭のアメリカには、そのような点が線になり、その線がどんどん太くなって1つの流れに変わる要因がありました。


西部劇でおなじみのアメリカの開拓時代は、1900年にはとっくに終わりを告げ、ワットの蒸気機関の発明が大陸横断鉄道の夢を叶えて、アメリカは近代工業国として、富と力を蓄えた大国に伸し上がりつつありました。


自信に満ちたアメリカ。しかしその中には、いつの時代にもあるように、繁栄の背後に貧困や病気が潜み、精神を病む人達の幸いの薄い生活の有様が、精神病院と呼ばれる人里離れた病棟の中で、空しい荒廃の日々として展開されていました。


この長期に病む人達は、ときどき訪れる篤志団体の慰問団の人達を通してだけ社会とつながっていました。そのような慈善的な慰問音楽活動の1つに聖トーマス・ギルドが行う「治療音楽会」がありました。この聖トーマス・ギルドの「治療音楽会」から、近代音楽療法の大きなうねりは始まっていきます

ヴェスツェリウスの音楽療法

数少ない記録から想像しますと、この種の慰問活動は、少人数の音楽家でグループを作って精神病院を尋ね、簡単な打ち合せをして病棟に入り、音楽を演奏していたようです。

エヴァ・ヴェスツェリウス(Eva Vescelius)という人の手記を見ますと、次のようなことが書かれています。


「……私達は病院の応接室で顔を合わせ、手早く数編のよく知られた賛美歌を選び出し、手短な打ち合せの後、数分後に実行に移りました。


初めの病棟には12人の患者さんがいました。一人の患者さんが私たちのお問に顔をほころばせて、歓迎してくれました。私はその老人の前に立ちました。


……歌が進んで『流れの彼方よりわれを招く』の所までくると、老人はたまりかねたように顔を覆って泣き崩れました。ほかの患者さんも同様でした。帰途、私達は一緒に歌っていた老歌手に何を歌ったのかと尋ねましたが、彼は歌った曲のことはそっちのけで、自分がバリトンであることを誇らしげに語り、彼らに善を施したとさも得意気でした。」


この手記を書いたヴェスツェリウスは、病院においてどんなに適切さを欠いた音楽が演奏されているかを痛感し、研鑽を重ねて、アメリカ最初の音楽療法協会の創始者になりました。1903年のことで、その協会の名は「ニューヨーク市治療協会」といいました。


彼女は依頼に応じて音楽の出前演奏をして、音楽療法を試みたようです。


そして実践を積み重ねました。彼女はいくつかの論文を書いていますが、選曲の重要性を強調した論文では、当時用いられていた薬の分類法を借用して、音楽を、tonic, stimulant, sedative, narcotic(強心剤、刺激剤、鎮静剤、催眠剤)の4種類に分類し、症状に応じた音楽の使用を提唱しています。


この考え方は、後のポドルスキー (Edward Podolsky) に受け継がれ、音楽治療の1つの流れとなりました。
エヴァ・ヴェスツェリウスの仕事は、ある意味では単発的な仕事で、それだけではアメリカの音楽療法の発達にはつながらなかったかも知れません。

音楽療法先進国の大きな要因


しかしアメリカには、音楽療法を1つの時の流れにしていく大きな要因があったと考えられます。


それが戦争であったことは悲しい事実です。アメリカを音楽療法の先進国に伸し上げたのは、最近まで続いた日本を初め、北朝鮮、ヴェトナムとの戦争だったのです。


1914年、第1次世界大戦が勃発します。

第1次世界大戦は、中東におけるオーストリア皇太子夫妻の殺害という事件から、列強の利害が絡み、みるみるうちに世界戦争へと発展するのですが、アメリカは早くからこの大戦に参加し、多くの兵士を前線に送り出しました。

このとき、海軍バンドに参加した、ヴァン・デ・ウォール(Willem Vande Wall)というメトロポリタン歌劇場のハープ奏者がいました。


彼はこの大戦中、様々な機会から音楽が人の心を捉える確かな手答えを感じ、本国に帰ったあと、その音楽の力を精神を病む人達の治療と予防に役立てようと決心します。そして彼はその仕事に没頭し、エヴァ・ヴェスツェリウスに続く2人目の音楽療法家として、アメリカにおける音楽療法のパイオニアの1人となりました。


彼が1926年に、アメリカ精神医学雑誌に投稿した「精神病院における組織的音楽プログラム」という論文を読みますと、彼の考えがいかに現代的であり、その頃の精神病院の治療的荒廃と照らして、治療としての音楽への期待が彼の胸の中にどんなに熱い思いとして湧き上がっていたかが分かります。

ヴァン・デ・ウォールによる音楽療法の爆発的展開


ヴェスツェリウスが感じたと同じ考えを、ヴァン・デ・ウォールは次のような言葉で表現しています。


「精神病院は、ため息と涙の場です。人の憧れや行為を病的と見なし、家や同僚から引き離し、強制と誤解の隠れ家に住まわせるのです。そこはあまりにも患者が多く、その上、手不足のために、多くの魂が失意に落ち入り、他人に従い愛し愛されたいという人間の基本的欲求充足すら満たされず、実質的な死へと運命付けられる場所なのです。」


彼によれば、病院勤務者は患者に精神的なエネルギーと霊感を与えなければならないのに、あまりにしばしば無感覚で無関心であり、本来の治療看護の役を果たしていない。そういう場所にこそ、音楽は、救いとして役割を持たなければいけないと力説しています。


このような彼の考え方の中には、偶然にも、戦後の精神医療改革が目指した、精神病院の収容所的性格の払拭という大きな目論見が見出されます。音楽活動はそのアプローチの1つとして、組織的に病院の中に取り込めると考えられました。


精神病院の音楽部門の目的は、彼によれば、患者の中に潜伏し、禁止されたまま利用されていない心身の力を賦活し、患者の人格的荒廃をできるだけ防ぎ、他の治療手段と協力して人間的でかつ社会的な統一体として彼らが再び働けるように、エネルギーの再分配を計ること、としています。


このような地道な活動がアメリカの音楽療法の思想の基本にあったことは、とても貴重だと言わねばなりません。ヴァン・デ・ウォールは、1944年に全米の病院音楽利用委員会の委員長になり、彼の音楽療法に対する健全な発展の方向を、第2次世界大戦期の音楽療法の爆発的展開につなげました。

軍病院での音楽療法


さて、束の間の平和の後にすぐまたやってくる1941年に始まる第2次世界大戦は、アメリカの音楽療法に重大な転機をもたらします。それまで軍病院は必ずしも音楽療法に理解があったとは言えませんでしたが、帰還傷病兵の増加と士気の回復に音楽が有効であることが判明すると、どの軍病院でも音楽を利用するようになります。


1942年、病院音楽プログラムの中に「戦時特別奉仕プログラム」が生まれ、250万点の楽器が、軍病院や退役軍人病院などに寄付されました。


この爆発的な病院音楽活動の高まりに、全米のありとあらゆる音楽集団は挙げて活動に参集し、軍の病院はボランティア音楽家で溢れ、彼らは戦傷病者のために精力的に働くことになります。傷病兵向けの音楽レッスン、音楽鑑賞、病棟で患者さん達と一緒に行う集団音楽演奏活動、有名演奏家の病院慰問など、多彩な催しが繰り広げられます。


音楽研究財団は、「音楽を人類への奉仕のために」という研究プロジェクトを設け、論文を募集します。


1944年に国家音楽委員会が行った全米病院音楽調査結果報告の中で、さきに登場したヴァン・デ・ウォールが報告を行っていますが、209病院中192施設で何らかの音楽活動が行われていることが報じられ、必要なのは、音楽の治療的価値について科学的に検証することと、音楽療法士の養成の2点であると述べています。

継続する戦後の音楽療法の熱気


戦争が終わっても、音楽療法に対する熱気は失われませんでした。ガストン(Thayer Gaston)は芸術が人間の精神衛生に好影響を与えることを主張し、ギリランド (Esther Goetz Gilliland) は、音楽教師は地域の病院の要請に答えなければならない、と論文に書きました。


かくして、音楽の治療的利用は、全米のあらゆる音楽集団を巻き込み、音楽療法運動は国家的プロジェクトの観を呈しました。次第に統一組織結成の認識が高まり、その中で、音楽療法士の養成を引き受け、教育の基準を打ち立て、自己流のエキスパートを規制し、資料データの交換、評価を促進し、音楽療法の仕事の範囲と限界を定め、そして研究を推進する全国組織の必要性が叫ばれていったのです。


1948年、NMC (National Music Council) の病院音楽利用委員会から発行された「病院音楽ニュース」は、117の病院がフルタイムの音楽家を雇っていることを報告、また退役軍人病院での大戦中の音楽ボランティアの業績を高く評価しました。


組織統合の機運がついに頂点に達した1950年6月、NMCの病院音楽利用委員会委員長であるレイ・グリーン(Ray Green)は、ニューヨークのアメリカ音楽センター委員室に228名の関係者を召集し、全国組織統合の議題を関係者に計りました。席上、全国組織の名称に用いられるべき「病院音楽」(Music in Therapy)という呼称を「音楽療法」(Music Therapy) に訂正すべきだという意見が提出され、この “Music Therapy”の語が採択されて、ここに名実ともに「音楽療法」が誕生しました。


このようにして、アメリカの音楽療法を現在まで牽引してきた全米音楽療法協会(NAMT (National Association for Music Therapy))は、1950年12月、首尾よく結成され、統一カリキュラムによる音楽療法士の養成、公認音楽療法士の認定などの事業が次々と実施されていきます。


その時点でアメリカは音楽療法の教育、実践のメッカとして押しも押されぬ地位を築き、世界中から沢山の音楽療法士志願者が集まり、音楽療法の世界的普及の原点になったのです。

先人に感謝し、知恵を有効に活用しよう

いかがだったでしょうか。

音楽療法が、戦争という負の要素で興隆したことを理解すると、先人の得た知恵を有効に活用しようという責任感が一層増しますね。

最後までご覧いただきありがとうございます。