音楽療法のHow To

日本の音楽療法を徹底解説【前編】│歴史から音楽療法を理解する

音楽療法の歴史について、歴史の中に現れるいくつかの音楽療法の重要な概念を、時代を追いながら記述してみたいと思います。

その理由は、現在私達が用いている様々な音楽療法の技法が、実は歴史の中で1つ1つ積み上げられてきた過去からの遺産であることを知ることが、音楽療法理解にとても有意義だからです。

今回は、日本の音楽療法の歴史について解説します。

日本の音楽療法を徹底解説│歴史から音楽療法を理解する

わが国の音楽療法は、私達日本人の記憶に生々しい第2次世界大戦の終了を待って始まりました。

戦争と音楽


戦争と音楽の関係は、日本でも種々展開されたようです。でもそれは音楽療法へと発展することはありませんでした。例えば、軍国調が華やかだった昭和16(1941)年から20(1945)年までの都会の小学校の音楽の時間には、ドミソ、ドファラ、シレソといった和音をピアノでひいて、それを生徒が耳で聴いて、ハホト、ハヘイ、ロニトと日本名で音名を当てる訓練が行われていました。音の高さや音色から、敵機の爆音を聴き分けることに少しでも役立てようとしていたのです。


他にも、国の療養所や病院では、婦人会の人達が、芸能人達と一緒に、傷病兵の慰問に当たっていたことが記録に残されています。このような傷病兵対象の慰問活動は終戦とともになくなり、また軍事的な音楽教育も新しい民主教育に取って替わられるようになります。

戦前の音楽の探求

ところで戦前はどうだったのでしょう。その点はまだほとんど研究が進んでいません。日本の音楽療法史を語る上では、歴史の中から事実を収集していく作業が是非とも必要になりますから、今後組織的に調査していってほしいと思います。


歌舞音曲を好む日本人の国民性から考えれば、音楽が民衆の生活の中に深く浸透していたことは充分予想できますから、音楽を病気の治療に用いた例は案外数多く見つかるかも知れません。


例えば、日本神話の天の岩戸伝説では、明らかに音楽が重大な役割を果たしています。皆さんもご存じの通り、天照大神は須佐之男命の目に余るろうぜきや乱暴に業を煮やし、天の岩屋に身を隠しました。そのために世界は闇に包まれますが、この故事は、須佐之男命の乱行に天照が心労のあまり病の床に伏せったと解することはさほど不自然ではありません。その時、神々は岩屋の外で、太鼓や踊りで歌い騒いで、大神の気を引き付けることに成功し、天上界はまた明るさを取り戻しました。これは古事記にみる音楽療法の世界です。


時代が少し下がりますと、平安時代の源博雅の伝説に出会います。雅楽の作曲とひちりきの演奏で有名な博雅は、ある時賊に家を襲われます。家財一切が持ち去られようとしたとき、残っていたひちりきで曲を吹奏したところ、賊はその音楽に感涙して家財を返した、という話が伝えられています。


この他にも、歴史を調べれば多くの逸話を見つけることが出来るでしょう。


歌念仏や幕末の世直しなども、歌舞による一種の精神の開放で、西洋のタランテラの話とどこか似ています。

日本の音楽料の黎明期

さて、話を現代に戻しましょう。最初に述べましたように、日本の音楽療法は戦後始まったのですが、それはどのような様子だったのでしょうか。


日本で最初に音楽療法を扱った本としては、櫻林仁の「生活の芸術」(1962)と、山松質文の「音楽による心理療法」(1966)があります。


興味深いのは、この2冊の本がともに、アメリカで出版されたポドルスキ一の「音楽療法」に刺激されて書かれたことで、ポドルスキーの「音楽療法」を紹介するのに多くのページが割かれています。

ポドルスキーの「音楽療法」

いったいこのポドルスキーの「音楽療法」という本はどんな本だったのでしょうか。


この本は、ある意味ではセンセーショナルな内容を含んでいました。アメリカ本国ではそれほど高い評価を得なかったようですが、1954年に出版されてすぐ、世界各国に流布され、それが日本にもわたって多くの心理学者、精神科医の興味を引き、アメリカで行われる新しい治療として注目を集めました。


本の内容は、音楽療法の理論的解説と様々な実践の報告の他に、大部分のページを割いて、音楽を薬の代用として用いる音楽処方の実例が書かれています。折しもLPがレコード界に登場して、前代未聞の長時間録音を可能にして話題になっていた時でもあり、そのLPの音楽療法的効能についても本書は取り上げています。

日本の音楽療法のパイオニア達

この本はそのような訳で、櫻林、山松らを刺激して日本の音楽療法の火付け役になったのですが、その他にも、蜂矢英彦、松井紀和、村井靖児など、他の音楽療法のパイオニア達に少なからぬ影響を与えました。日本の音楽療法の系図を作ってみますと、音楽療法の第1世代としては、前述の櫻林、山松、そして加賀谷哲郎の3人の名前を挙げることが出来ます。

日本音楽療法のパイオニア①:櫻林仁


櫻林仁は、当時、東京芸術大学の心理学の教授でしたが、ポドルスキーの本に刺激されて、東京を足場に音楽療法の啓蒙活動を始めます。まず東京の各音楽大学に学生の音楽療法研究会を作り、その合同のミーティングを組織して、アメリカの文献の紹介が始まりました。その研究会は、初め「武蔵野音楽大学音楽療法研究会」と呼ばれましたが、後に「日本音楽心理学音楽療法懇話会」と呼ばれ、現在まで休むことなく続けられています。毎年刊行された音楽療法研究年報は、海外に日本の音楽療法を紹介する上で大きな役割を果たしました。


櫻林の理論は、彼の数々の著作の中に力説されているように、まず第1は、音楽教育の中には音楽療法的な考えを取り入れていかなければならないという主張、第2は日本の音楽界は従来のライバリズムを放棄し、もっとヒューマニスティックな余裕のある音楽の取り組み方が必要だということ、第3に将来の音楽療法のあり方と関連して、単に音楽を用いることだけに終始せず、演劇を取り入れた総合芸術的な音楽療法になるべきである、などの主張が展開されています。


彼の会は、平成7(1995)年の彼の逝去後、後継者によって引き継がれていますが、生前より、日本の音楽療法界の新人を育て、その時々の話題の理論を披露し、音楽療法に興味を持つ一般人や学生の啓蒙の場としての役割を果たしてきたことは高く評価されます。

日本音楽療法のパイオニア②:山松質文


次に山松質文は、大阪に活動の拠点を持ち、臨床心理学の立場から、自閉症の音楽療法の技法の発展に、大きな足跡を残しました。


櫻林が主として理論面から音楽療法に迫ったのに対し、山松は、自閉症の子らとの音楽を通した関わりの実践の中から、セッションの中にトランポリンを用いる彼独自の心理療法を創り出し、セラピストと伴奏者の二人三脚による児童の音楽療法を提唱しました。そこには深い人間的共感と心理療法家としての豊かな経験が感じられます。


彼が創設した「ミュージックセラピィ研究会」は、関西における児童の音楽療法の拠点として、音楽療法の普及と後継者の育成に努めましたが、近年は、東京で研究会が開催されています。

日本音楽療法のパイオニア③:加賀谷哲郎

もう1人の加賀谷哲郎は、東京の水上小学校で海上就業者の子弟の音楽教育に関わり、その仕事から発展して、知恵遅れの子ども達の音楽療法を自力で開発していきました。


障害を持つ子ども達が、喜んで参加できる音楽遊戯を創作し、子どもが楽しく母親と一緒に歌や動作を覚えていくことを目指しました。後に加賀谷式と呼ばれた集団音楽動作指導法は、彼の精力的な活動を通して、障害児音楽教育の中に広く浸透しています。


加賀谷は「日本音楽療法協会」を創設し、仕事の発展普及に尽くしましたが、死後その成果は日本各地に花開き、現在は「磁場の会」の方々を中心に、障害児と家族のための音楽講習会が毎年精力的に続けられています。
このようにわが国の音楽療法は、まず心理学者や教育者の手で、障害児を中心とした音楽療法が始められ、発展しました。

日本人と音楽の古来からの結びつき

いかがだったでしょうか。

戦後になり音楽療法の研究が進みましたが、日本人ももともと、音楽と深いかかわりがあることも分かりましたね。

この続きは別の記事にてご紹介します。

最後までご覧いただきありがとうございます。