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【初心者向け】歴史の中の名音楽療法士 ファリネリに徹底解説│歴史から音楽療法を理解する

音楽療法の歴史について、歴史の中に現れるいくつかの音楽療法の重要な概念を、時代を追いながら記述してみたいと思います。

その理由は、現在私達が用いている様々な音楽療法の技法が、実は歴史の中で1つ1つ積み上げられてきた過去からの遺産であることを知ることが、音楽療法理解にとても有意義だからです。

今回は、歴史の中の名音楽療法士の1人 ファリネリについて解説します。

【初心者向け】歴史の中の名音楽療法士 ファリネリに徹底解説│歴史から音楽療法を理解する

ファリネリの生い立ち

さて時代は大分下がって18世紀になりますが、バッハの生誕から20年過ぎた1705年、イタリアのアンドリアという町にカルロ・ブロッシ・ファリネリ(Carlo Broschi Farinelli)という人が生まれました。

彼は18世紀最大のカストラートテナーと言われ、その名声はヨーロッパ全土に鳴り響きました。

当時イタリアではオペラが盛んで、多くの人が歌手を目指し、中でも子供のうちに去勢して、ボーイソプラノのまま成人させる風習がはやっていました。

その人達のことをカストラートと呼び、彼らは少年のような美しい声に大人の艶のある朗々とした声の響きが加わり、独特の美声でもてはやされていました。

ローマ法王は男の子をカストラートにする風習には再三禁止令を出しますが、わが子を名歌手にしたい親の願望は留まることなく、20世紀の初めまで、カストラートはヨーロッパの音楽界で活躍していました。

ファリネリの人気

ところでファリネリは、17歳の時に既にボーイソプラノ歌手として南イタリアで名前を知られ、その後各地を演奏旅行して多くの歌手と声を競い、25歳過ぎにはヨーロッパで当代一の歌手として名声と富を我が物にするようになっています。

彼の歌い方は華麗さと技巧を併せたもので、聴衆を魅了するに充分魅惑的だったのですが、26歳のとき、3度目のウィーン演奏旅行の際にカルル6世の助言を得て、それまでの名人芸的歌い方から「情熱」と「単純」の歌い方にスタイルを転換したと伝えられています。

そのことがあって、ますます人気は高まりました。

32歳になったファリネリはスペインへ演奏旅行をし、成功を収めます。

音楽療法士として活躍

そして再びスペイン旅行を企てたとき、運命は彼に全く新しい人生をもたらしました。

当時スペイン国王であったフェリペ5世は悪性のメランコリーに悩まされ、ほとんど政務に携わらない状態が続いていました。

王妃はファリネリの名声を聞き、彼の歌で王の病を治そうと考えます。

当夜、ファリネリは王の寝室の隣りの部屋から、王のために4曲の歌を歌いました。

1曲目を歌い終えないうちに王は彼の演奏に非常に感激し、2曲目のアリアが終わると、彼を部屋に招き、賞賛して3曲目を所望したといわれます。

演奏の後、ファリネリは褒美に何でも取らせると言う王の言葉に、王に政務に就くよう請願します。

フェリペ5世が議会に出席するようになったのは、それから間もなくのことでした。

王妃はことのほか満足し、年俸5万フランで王の歌手として宮廷に仕えてくれるようファリネリに要請し、彼はこうして永久に楽団から去り、王宮の音楽家となりました。

ファリネリは王が死ぬまで、毎晩王のために最初に歌った4曲の歌を歌ったと伝えられます。

そしてフェリペ5世の逝去後、次のフェルナンド6世にも仕え、どの大臣よりも上位の地位に遇され、1750年、スペインで最も栄誉のあるカラトラバの十字勲章を受けました。

音楽療法に対する賞賛

いかがだったでしょうか。

当時大国のスペインで、彼が成し遂げた成果からも分かる通り、昔から音楽療法が大変重宝されていたことが分かります。

別の記事にてもう一人の歴史上の名音楽療法士のダビデについても解説しますので、確認してみてください。

最後までご覧いただきありがとうございます。