音楽療法の歴史について、歴史の中に現れるいくつかの音楽療法の重要な概念を、時代を追いながら記述してみたいと思います。
その理由は、現在私達が用いている様々な音楽療法の技法が、実は歴史の中で1つ1つ積み上げられてきた過去からの遺産であることを知ることが、音楽療法理解にとても有意義だからです。
今回は、日本の音楽療法の歴史(後編)について解説します。
日本の音楽療法を徹底解説【後編】│歴史から音楽療法を理解する

精神科医にも読まれたポドルスキーの「音楽療法」は、櫻林、山松、加賀谷とほぼ時を同じくして、精神病院の音楽療法に道を開きました。
日本音楽療法の第2世代
日本の音楽療法の第2世代①:蜂矢英彦
まず都立松沢病院の精神科医師をしていた蜂矢英彦が、アメリカの精神病院での音楽治療活動の記事に触発されて、早速自分の病院の患者にその成果を試し、その結果を雑誌「栄養」に発表します。
その論評は、普段黙って何もしない精神分裂病の患者が、音楽に生き生き反応する姿に接した、蜂矢の驚きの言葉で綴られています。
蜂矢はその後音楽療法の第一線には参加しませんでしたが、精神病者の社会復帰に大きな足跡を残し、音楽療法の良き理解者として盛ながら音楽療法の発展を支えてくれています。
日本の音楽療法の第2世代②:松井紀和
山梨の日下部病院の院長であった松井紀和は、持ち前の音楽の才能を生かして、早くから患者の生活の中に音楽を取り入れました。
毎週病院のホールで行われる職員・患者による音楽とダンスの会は、当時精神病院で行われる新しいレクリエーションとして、若い精神科医達の目を引きました。
彼は有能な精神分析医として、精神力動の面から、精神病院で行われる様様な余暇活動や作業活動を再編成し、患者の病気の回復と社会復帰に貢献しました。
その後、松井は日本で初めての「音楽療法セミナー」を、地元の山梨県富士山麓で開くようになり、全国から多くの音楽療法実践者と学生を集めて、音楽療法家の連携と基礎学習の場を提供し、現在も引き続き多くの信奉者を集めています。
彼のもとからは、音楽療法と障害児教育に携わる多くの実践者が巣立っています。
日本の音楽療法の第2世代③:村井靖児
松井から5年ほど遅れて精神医学の道に入った村井靖児は、音楽の専門的学習のキャリアを生かし、松井と並んで日本の音楽療法の第2世代の中心を形作っています。
村井は長いこと国立下総療養所で精神科医療に携わり、精神病院での音楽療法を実践すると同時に、音楽大学での音楽療法家の教育にも力を注いでいます。
1988(昭和63) 年から、「東京音楽療法協会」を組織し、全国の音楽療法家の提携を計り、音楽療法の全国組織への基礎を築きました。
音楽療法の心理療法的アプローチを目指して、嗜好拡大法、調整的音楽療法の日本的修正、禅的音楽療法の研究などを行っています。
以上述べた人々が日本の音楽療法の第2世代です。
イギリスのアルヴァン女史の来日
さて日本の音楽療法の発展の中で特筆すべき出来事として、1967(昭和42)年のイギリスのアルヴァン女史の来日がありました。
櫻林が企画した彼女の来日講演は、東京芸術大学で学生を集めて開かれました。
この来日は、少なからぬインパクトを音楽教育界に与え、わが国初めての音楽療法特集記事が「音楽教育研究」に組まれ、櫻林仁、松井紀和、村井靖児らが執筆しました。
2年後アルヴァンは再度来日して、東京、関西などで、障害児の音楽療法の実践を音楽療法関係者に披露しました。
日本の音楽療法の第3世代
日本の音楽療法の第3世代①:遠山文吉
その時、日本側のアシスタントとしてアルヴァン女史の手伝いをしたのが、第3世代筆頭の遠山文吉です。
遠山は東京芸術大学の声楽科を卒業し、大学院で音楽教育学を専修した後、障害児教育の仕事に就きました。
様々な障害を持つ子ども達の音楽指導に関わる中で当然直面したのは、彼らの発達の遅れであり、それをいかにして音楽で援助するかが、彼のライフワークになりました。
彼はアルヴァンの音楽療法の精神を日本に取り入れ、子供の感覚やニーズを大事にした音楽療法的音楽教育を現在展開しています。
前述の松井紀和の音楽療法セミナーの常連講師として、障害児の音楽療法の基本を後進に知らしめた功績は大きく評価されます。
日本の音楽療法の第3世代②:宇佐川浩
遠山と親しく交わり、後に障害児の臨床に、独自の発達論的理論を導き入れたのが、淑徳大学で障害児臨床を担当する宇佐川浩です。
宇佐川は音楽を良くし、自らギターを奏でながら障害児と接触し、音楽が他のどの遊具よりも優れて、発達訓練に適した手段であることを見出し、また障害児が示す異常な行動が、実は正常児の発達経過の中で短期的にみられるごく当り前の行動であることを指摘して、障害児の行動理解と発達の援助に大きな臨床的示唆を与えました。
彼の研究室は、多くの音楽療法家の基礎教育と訓練の場として、音楽療法家の重要な育成の場になっています。
一方、遠山と同じ声楽畑の出身で、日本で長いこと障害児の施設で音楽教育の実践に従事した後、アメリカにわたり、カンザス大学の音楽療法科の博士課程まで終了した栗林文雄は、アメリカでの長い研修で得た音楽療法全般に対する深い見識で、日本の音楽療法に関わっています。
現在は札幌市郊外の北海道医療大学で音楽療法の教鞭をとる傍ら、東京、アメリカを往復し、忙しい音楽療法教育活動を展開しています。
そして、これらの音楽療法のパイオニア達の後に、第4世代、第5世代、第6世代と沢山の音楽療法の実践家達が続いているのが、現在の日本の音楽療法地図だといえましょう。
日本の音楽療法は、ちょうど加速度的な動きの過渡期

最後に、現在の音楽療法の状況を展望してみましょう。
現在、日本の音楽療法は加速度的に動いています。
日本の各地に音楽療法の研究会が誕生し、岐阜など一部の自治体が独自の音楽療法研究所を設立しました。
また1994(平成6)年の音楽教育振興法の成立で、音楽文化の推進が国の施策として取り上げられる事態が出現しています。
また、音楽大学の音楽教育課程に音楽療法が加えられる動きが出ていますし、音楽療法士養成コースの設置も一部に伝えられています。
外国の音楽療法コースを修了して帰国する学生も増えてきました。
そして次に来るのは、日本での音楽療法士の教育、資格制度の確立、認定などでしょう。
その動きがいま着実に始まっています。
資格化への長い道のりが、今まさに動き出したところなのです。
最後までご覧いただきありがとうございます。